第7話 〜 過去に目を閉ざすな
ふらっと
7月9日、日曜日。この日はヴァルトブルク家の歴史に刻まれる1日になる。200年続いた王国の系譜の最後の英雄、ギュンター・フォン・ヴァルトブルクの葬儀、それも国葬待遇での式典が行われる日だからだ。諡は「ヴァルトブルク宮中伯及びシュルスタイン城主にして、神の恩寵による国王と民衆の守護英雄、熱烈公ギュンター」という仰々しいもので、街も朝から騒々しかった。
国民性からしてもともと、平常は静かなことが多いものであるが、祭りごとにかける熱意は凄まじいのだ。その熱気を振り分けて、もう少し平静の愛想をよくしたらどうかと常々思うのだが、それをいま突っ込んでもどうしようもない。この日の盛り上がりは言うまでもなく、非常に大きいからだ。
式典が始まる前、執事クルトと故人の娘たちはかなり忙しくしていた。安全上の注意や所作、そして儀式上の役割などを細かく説明され、この蒸し暑い時期に黒くて分厚い喪服に身を包み、化粧まで施されては、気の休まりようがないのも当然というものである。
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
まったく、お兄様はどこにおられるのかしら、こんなときに。
![[アイコン: アルバータ]](/series/6c0b44cb/alb@x1.avif)
気が変わられて、帝国の大学の方にお帰りになったとか…
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
そんなこと言わないの、縁起でもない。ところでアルバータ、あなた一日立っていられそう?体調が悪くなったらすぐ言いなさいね。
![[アイコン: アルバータ]](/series/6c0b44cb/alb@x1.avif)
もちろんですわ、お姉さま。
このような儀式は軍のも兼ねるのが通常である。人が集まって並ぶ状況は国威発揚としてとても都合が良いのである。貴族たちは、数年前の共和革命でも目立った血が流れず、対外戦争のない時期が十数年続いている上、政治体制の転換もあり、個人崇拝的な傾向はかなり控えめになったため、今後この国葬に比する集会はないと読んでいた。例えば、公爵級の逝去に伴っては、大規模な葬儀こそすれ、その母体は各家になるのだ。対して、ギュンターは「英雄」であり、国家の最高勲章を持っていたために、開催母体は国だ。であるからして、この場でどれほど政策の成功を主張できるかが勝負だった。近年広がってやまない近隣国家の帝国主義や、反対に寡頭支配を腐らせてしまう二院制議会・三権分立・普通選挙の導入という民主化の波に抗って貴族による寡占共和制を保たせる術の最たるものはプロパガンダだと彼らは信じていた。それだけに、このパレードの熱は異様だった。気合いの入れ方に調和して、国民は湧き立っていた。
![[アイコン: レギーナ]](/series/6c0b44cb/reg@x1.avif)
お父様そのものより、豪勢な軍隊に目が向いているという感じね。気持ちよくはないわ、利用されてるみたいで。
![[アイコン: クルト]](/series/6c0b44cb/cur@x1.avif)
そんなにはっきりと申されなくとも、お嬢様。
クルトの注意にレギーナは口を噤んだ。時刻は10時半前。いくばくもせず、広場から大聖堂への葬列行進、そして大聖堂内での葬儀という目玉行事がなされる。埋葬がなされた後、人形と供物を詰めた観覧用の棺が旧王宮にて公開され、3日の祈祷と献花が捧げられる。元老院は、今日なんらかの形で働くことを禁じて安息日とし、そして3日の喪の間、結婚式を挙げることを禁じた。国王の葬儀ではこれが7日であったから、8日目に当たる日には皆がこぞって結婚式に向かったことは民の記憶に新しかった。今回も同じことが起こるだろうか。
![[アイコン: グラティア]](/series/6c0b44cb/gra@x1.avif)
さすがに緊張してきたかも。途中で泣いちゃわないか不安だし…
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
貴族が公の葬儀の時に泣くのはこの国の慣習に反するものね。
控え室になっている王宮のある部屋で、既に泣いているグラティアの頬を、イレーネが化粧が崩れないように優しく拭き取っていた。しかし、彼女の目にも雫の玉がうっすらと浮かんでいた。その姿にレギーナやアルバータも涙腺が刺激されたようだった。目にを押し当てて、排出されようとする“水分”を必死に啜る音がこだました。共感がさらに涙を誘い、もはや抑えられなかった。
グラティアの多量の涙を拭いてもはや吸水力のないハンカチを自分の目に押し当てる健気な長女。もちろん、とめどなく流れる涙を拭い去るには不十分だった。その時、どこからか乾いた布が目に当てられた。
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
ありがとう、クル…
それが気の利く執事の仕業だとばかり思っていたイレーネは、唖然とした。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
気にすることはないよ、好きなだけ泣いたらいい。慣習は何も法律ってわけじゃない。自然な感情をいつでも吐露する人の方が親近感があるだろう。時代は変わってるんだから、振る舞いも変わっていくはずさ。
![[アイコン: イレーネ・レギーナ・アルバータ・グラティア]](/series/6c0b44cb/sisters@x1.avif)
お兄様!
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
大事の直前まで出てこないで何をしてらしたのか、とかいろいろお聞きしたいことはありますけど、もう時間になりますわ。行きましょう。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
ああ、そうしよう。
扉の向こうを見据える若者の目線はどこか遠くを一心に見つめていた。扉を開けると、眩いばかりの青い夏空に、その下に集う何万もの民衆の活気も相まって、その熱たるや。それぞれが振りまわす弔意を示す白いハンカチが風に流れてはためく姿は波のようで、その中を漆黒の棺と参列者が練り歩く姿はまるで、鯨が大海を泳ぐが如く…
14時30分。総裁督(聞き慣れない言葉だが、この語はこの地方で最上位の聖職者に対して用いる一般的な尊称である。いわゆる司教、主教のこと。)による感謝の祈りに全員が和していた。教会における葬儀は終わり、これからは家族や友人の挨拶が広場に面した城の2階のから行われる。この場で家族を代表して喋ること、それがすなわち、ヴァルトブルク家の次なる当主であることを国民に公にすることである。“念のため”、イレーネはクルトや友たちに諮って作った原稿を持っていた。それでも、その蛇腹に折られた小さな紙を持っているだけで、胃がきりりと痛むのを感じていた。決心したように見えた4日前の兄の姿を信じて、なんとか冷静さを保っているに過ぎなかった。
他の問題もある。照りつけるような日差しの中、バルコニーに2時間近く立っていなければならない。アルバータにとっても山場であることは間違いない。
挨拶
最初に挨拶をしたのは故人の古い友人、ヴァイマル侯ルードヴィングである。余談だが、大抵の爵位は特定の役職の名誉称号になりつつあり、かつ断絶ののち復活したり分家ができることなども多々あるので、基本的に家名と名字は異なるのが常である。その点、ヴァルトブルク家は爵位号と同じ名字を維持する数少ない旧家なのである。話を戻すと、彼の挨拶は見事なものだった。どこか懐かしさのあるアルブレヒトの日常風景に悲しみと感謝を投映して詩的に表現したのち、「この故郷をいつまでも守っていこう」という熱い句で挨拶を終えた。次は親族の隣国の貴族が、そして領民を代表してシュルスタイン監督(聖職者の称号である)と、クラリッサ、そう、例の若き御者の妻が挨拶をした。2人とも緊張でかなりこわばってはいたが、本人たちの溢れ出んばかりの人柄が、田舎ならではの温かさを伴ってよく現れていた。この時点で涙する聴衆さえいた。既にこの演目が開始して1時間が経過している。次は元老院議長、つまりかの男、マルキ・デ・ヴァロワの番である。彼の名が呼ばれると、王宮の奥から1人の男が颯爽と現れた。広場の空気が変わる。
レオポルドは噂に聞いていた彼の姿を初めて見た。なるほど好男子である。透き通るほどに輝いた、しかし深く色の入った金髪を靡かせている。男性にしては珍しいほどの長髪だ。肩甲骨の下辺りまで髪が伸びているが、そのどこも絡まったり細ったりしていない。そのの色合いに良く合う、程よく赤みがかった透明感のある艶の良い肌。顔のどの部位をとっても文句のつけ難い端正な顔立ちだ。身長はレオポルドより少し低いくらいだろうか。健康的で体も良く鍛えられているが、筋肉は肥大せず、召物が良く似合う均整の取れた容姿である。彼がバルコニーに立つと、民の視線が集まるのが一目で分かった。注目度は桁違いで、広場にはどんどん人が流れ込んで来た。見渡す限り揺れる人の頭で埋まっている。建物の屋根に登っている人もいる。彼の声を一言も漏らさず聞こうと。
ヴァロワは華奢な体躯に見合わぬ大きな声で挨拶を始めた。
![[アイコン: ヴァロワ]](/series/6c0b44cb/mar@x1.avif)
愛する共和政アルブレヒトの諸君、こんにちは。もっとも、今日という悲しみの日に、明るく挨拶を交わす気になどならないかもしれないが。まず一度、諸君の声を聞かせてくれないか。
挨拶というより演説と形容すべきヴァロワの熱弁はしばらく続いた。レオポルドでさえ話に魅入られ、我に帰った時には20分が経過していたほどに。挨拶の1人当たりの持ち時間は15分であるから、とうに過ぎているのだが、彼の話はまだ続いていた。最終的に彼は、この葬儀の前半で行われたパレードについて述べ始めた。軍に尽くす忠国の士に心から感謝を述べつつ、愛国者を募った。民が湧き立つ。そして最後に、民と貴族たち、神とギュンターに感謝を捧げて、4度深く拝礼してから、ちらりとこちらに目をやってから、力強く話を締めくくる。
![[アイコン: ヴァロワ]](/series/6c0b44cb/mar@x1.avif)
次なるヴァルトブルク家の当主が、アルブレヒトを深く愛し、その若き力を存分に活かして、偉大な父の如く民を愛し、教え、力付けることを、そのようにして父と母によってここに生を受けた恩に報いることを心底願っている。この祈りが神に届かんと切望し、私の挨拶と換えさせて頂く。
割れんばかりの拍手が湧き起こる。ヴァロワはしばらく拍手に応えて手を振っていたが、しばらくしてヴァルトブルク家の並びの後ろに退がった。なお鳴り止むことのない拍手。さらに数分して鳴り止んだ時、司会者が言った。
![[アイコン: 司会者]](/series/6c0b44cb/man@x1.avif)
では、最後にご家族からご挨拶いただきましょう。
当主は誰に
イレーネにとってはいよいよ“その時”だった。彼女は目の前に立っているレオポルドが動き出すのを期待したが、彼は動かない。真下にいる群衆から少しのどよめきが起きた。兄の背中をつんと突いてみる。次は手のひらで押してみた。しかし、彼は動かない。その代わりに囁いた。[イレーネ、用意してきたんだろう、文章を。私はしていないんだ。挨拶するのは、君だ、イレーネ。]
さあ困った。彼女が恐れていたことが現実になってしまった。彼女は願いをこめて、もう一度強く兄の背中を両手で押してみた。しかし彼は動かない。怒りさえ湧いてくる心の猛りを必死になって抑えて、覚悟を決めなければと思った矢先。背中に力強い3つの手の感触を覚えた。レギーナ、アルバータ、グラティアだった。[お姉さま!頑張って!]
力付けられたイレーネが1歩前に進むと、群衆はどよめいた。女性の継承は、アルブレヒトではないわけではないが、とはいえ、珍しいことだった。まして、健康な男児がいる家庭ではほぼ前例がないと言ってよい。2歩進む。レオポルドと並んだ。イレーネは睨みつけるように兄の横顔を見たが、彼はなぜかとてつもない笑顔で、その分無性に腹が立った。むしろ怒りを通り越して清々しいほどだった。でも不思議と、力が湧いてくる気がした。反骨心なのか、あるいはその優しい表情に父に似た何かを感じ取ったからかは分からない。もう2歩進み出て、緊張の中、1言目を絞り出す。
![[アイコン: イレーネ]](/series/6c0b44cb/ire@x1.avif)
イレーネ・フォン・ヴァルトブルクです。今日はヴァルトブルク家を代表し、葬儀に参加された皆様に感謝を申し上げます。父は…父は私にとって本当に理想を体現した存在でした。
群衆のどよめきは集まって絶叫にさえ近いものになった。それは驚愕だけでなく、女性たちの歓喜に近い声や長丁場の疲労ゆえに全体の思考が鈍くなっていることも関係していたのだろう。それが落ち着くのには、マルキへの拍手が鳴りやむほどの時間がかかった。が、イレーネは落ち着きを取り戻し、挨拶を続けた。お世辞にも名演説とはいえないが、言葉遣いの端々に優しさが溢れており、誰もが彼女の“育ちの良さ”を感じただろう。なにより父に対する深い敬愛の現れたものだった。しかし、緊張して間が詰まったのか、彼女の挨拶は9分で終わってしまった。群衆はまたざわめき始める。演説が重要視されるこの国の文化では、話が長引くのは良いにしても、短く終わるのは恥とされている。よもや、貴族の家長となろう者にとっては恥に他ならない。騒乱が大きくなっていく。その時、ヴァロワが少し前に出た。まさか、何か助け舟を出そうというのだろうか。クルトとレオポルドだけがそれに気付いた。だが、誰より先に動いたのはアルバータだった。
![[アイコン: アルバータ]](/series/6c0b44cb/alb@x1.avif)
皆様落ち着いてください。3女のアルバータと申します。あの…少し珍しいことかもしれませんが、これはその、そういう演出なんです。姉は私たちを皆様に紹介しようと考えていて、話し始める機会を見失っただけなんです。
![[アイコン: レギーナ]](/series/6c0b44cb/reg@x1.avif)
そうなんです。私は次女のレギーナ。私たちはそれを待っておりました。代わりに私たちが自ら皆様のみ目に触れて自己紹介する特権に預かりたく存じます。
レギーナが進み出て言った。最後に喋ったのはグラティアだった。
![[アイコン: グラティア]](/series/6c0b44cb/gra@x1.avif)
私は4女のグラティアです。まずは、皆様が父の葬儀のために集まってくださったことに、私からも感謝申し上げます。
次は誰が喋ろうかと、一瞬視線を通わせた彼女たち。しかし、広場のざわめきは大きくなるばかり。その時、誰かが4人の肩をまとめて抱き寄せた。その者は、大きな声でこう言った。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
と、このように、私には実に健気で利発な妹たちがいます。皆様にご紹介したかったのです。イレーネの挨拶は心打つものではありませんでしたか。もちろん未熟なところはありましたが。ヴァルトブルク家の我ら7人は、両親の早逝という悲劇に見舞われました。そう、本当はこの時を迎える子供たちは7人いたはずでした。義兄テオドールは父の数日後に、弟は9年前に、母と共に亡くなりました。それらを含め、神はこの受難の時期を私たちに授け賜うたのです。はっきり申し上げれば、今はまだその理由が分かりません。しかし、いずれ分かると私は確信しています。ちょうど、使徒パウロが書いた通りに。「死も、他のどんなものも、神の愛から我らを引き離し得ない。」と。ですから私は、彼女たちを支え、支えられながら、父から受け継いだこの重い責任を果たすと誓います。今日この日に、皆様の目前で、私はこの美しい国と人々を守るため、命を費やしても最善を尽くすと、神に誓います。私がヴァルトブルク宮中伯を継承する、レオポルド・フォン・ヴァルトブルクです。
レオポルドは“演説”を続ける。始めは父の成し遂げたこと、政体の変化に関する先見の明、自分が留学した経緯などをかなり赤裸々に語るところからだ。続いて自分が留学していた帝国の先進的な部分、暗黒の面、そして恩師ファイトから大学で学んだ法についての理論を。話の中でも小難しいこの部分を聴衆を飽きさせることなく終えたのは、ひとえに彼の観察力、現実に寄り添った内容と例証あってのものだろう。例えば、ある家の夫が、妻が怖くて馬小屋に隠れ家を作った話だとか、そんな容易に想像のつく話が心を掴んだからだろう。だんだんと熱意の篭ってきた発声は、少しずつ重厚な話へと切り替わっていく。彼の持つアルブレヒトへの愛と、今後変わるべきところについて。本人が言っていた通り、彼は文面を用意してきた訳ではないので、その全文は把握しきれなかったし、長さも感覚に頼って調整していた。その流暢さを見ると、内容はある程度用意していたのだろうが。ともかく、聴衆が飽きる前にころころと次の話題に進んでいく。そんな中でも後半は特に感動的だった。民の記憶に刻まれることになる演説の一部を以下に記そう。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
お恥ずかしい身の上を長々と話して参りました。皆様の不服は承知の上ですが、ここからは、私が皆様にぜひお伝えしたいことを少し話させてくださいませんか。
私にとって6月18日は心に刻むべき日になりました。心に刻むとは、自己を形作る内奥の部分の一つとして永久に記憶するということです。この日はまず、父を亡くした日として記憶されるでしょう。でも、私にとっては記念すべき日でもあるのです。そればかりか、私たち全員にとってこの日が記念すべき日になることを深く望んでいます。
皆様は今日、パレードに始まり、葬儀、国家のたちによる挨拶までを通し、多かれ少なかれ、過ぎ去りし日のことを思い出されたのではありませんか。特にルードヴィング侯爵の挨拶にはそれが表れていました。先王の時代のこと、高齢の方であれば、今は日の沈まぬあの帝国が成立した頃を思い出された方もいらっしゃることでしょう。私も若輩ながらに思い出すことがあります。そうです、本当に穏やかで暖かく、真面目で勤勉な、道徳の高いアルブレヒト人かくあるべし、という姿です。教会に通って毎日祈り、愛情深く育てられた子供たちが元気に走り回る。よくしつけられて家事を手伝い、困っている人には必ず手を貸す。自然豊かで頑丈な建造物に、家畜のいるのどかな風景。そして美しい空と川。あらゆる資源を生み出す肥沃な土地に、簡素で洗練された食事。幼少の頃にはそういう風景や先人たちをよく見かけました。いい思い出です。でも、幸せな記憶に必ず付きまとうのが苦い思い出です。
もちろん、それらの記憶は今となっては我々が生き抜いた日々の中の、引き潮のような時期に過ぎません。ですが、私たちは常に、圧政や争い、そして無法のはびこる中に小さな幸せを探しながら生きてきたのではありませんか。どんな方にも思い当たる節があるのではあるはずです。悲劇という面では、こと、統一アルブレヒト国家の形成に際して亡くなった多くの軍人たちのことを想います。そしてこの200年間、国家を維持するために死んでいった多くの愛国者たちのことを。今も戦いに苦しむすべての民族のことを、なかんずく新大陸で近年始まった独立戦争による無数の死者を思い浮かべます。加えて、蒸気機関の登場により始まった新たな戦争、労働者の権利のための戦いや短絡的な児童労働との戦いについても想います。人類はいまや動力を得て、大陸までも手中に収めましたが、いまだ平和を手にした訳ではありません。
他にも、これまで、誰かの利益のために使われて斃れた同胞のことを想います。誰かを守るために進んで犠牲になった仲間のことを考えます。あるいは、なんらかの信仰や信念のゆえに死なねばならなかった人たちを思い浮かべます。家族と友と神を愛し抜いて死んだアルブレヒト人全員のことを想像します。想像するに過ぎません。その数はあまりにも多いからです。すべて今日に至るまでの世界の礎になって亡くなっていった者に敬意を表します。もちろん、そこには父も含まれているでしょう。兄もです。あなたの愛する人も、でしょうか。計り知れないほどのしかばねの累によって、歴史は綴られてきましたが、人間の悲嘆は続くばかりか増してさえいるのが現実です。そう、それが逃れられぬ現実です。
“古き善き”在りし日を失ったこと、健康を失ったこと、友を失ったこと、家を失ったこと、家族を失ったこと、生計の手段を失ったこと、信仰を失ったこと、人生の意義を失ったこと。こうした全ての悲嘆を誰かが感じる度に増えて、日々積み重なっていくいわば人類のそのものが、私たちの心に日に日に深く刻み込まれていくのです。
私だけではありません。皆がこの事実とそこから生まれる責任を負っているはずです。それどころか責苦をも感じています。特に耐え難い重荷を感じているのは多分、女性たちでしょう。その多くの苦難、忍従、そして人知れぬ力はあまり、歴史に記録されることがありませんでした。でも、不安に直面しても忙しなく働き、家族を、畑を、子を、同胞を慈しみ、育て上げてきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。世間を明るく照らす光を灯し続けたのはいつも彼女たちではありませんでしたか。今日この場を借りて、心から感謝を伝えるとともに、これからも変わらずあなたたちの輝きに照らされ浴していたいと願うものです。
会場の半分から大きな歓声と拍手が湧く。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
話は戻ります。私は皆様に、これらの人類の悲痛すべてが、他の誰かに責任があることだとは考えていただきたくありません。つまり、自分の責任を感じてほしいのです。今日この機会に、ひとりひとりがこの現実とどう向き合ってきたかを自問していただきたいのです。私たちはもちろん、自分が犯していない罪を告白することはできません。しかしながら、歴史は私たちにこれだけの負債を残したのですから、誰かがこれを担う必要があるでしょう。罪の有無、老若男女を問わず、私たち全員が過去を引き受けねばなりません。そうすることで、私たちは助け合えます。重さを分担するのです。過去を、歴史を克服することはできないでしょう。かといっておいそれと振り捨てることはできません。過去を変えたり、起こらなかったことにするのも不可能です。それは、私たちの存在の否定に他ならないからです。
しかし、過去のある時点で自分の目を閉じ、現実を直視することをやめてしまうなら、結局は現在にも盲目であることになります。目を抉り取ってしまえば、1度失った視力は2度と戻らないのではありませんか。これは非常に危険なことです。あなたが思っているよりもはるかに。今日を道を踏み外さずに歩み、目を開けて明るい未来の到来を見るためには、過去に目を閉じず、現在も目を背けず、ひたすら事実を直視しなければならないのです。しかし同時に、この問題、逃げ腰な姿勢は私たちすべてが容易に陥る罠でもあります。
ですから、私がヴァルトブルク伯として皆様にある程度の権力を行使するという、人間にとって付加的な責任を負う以上、取り組まねばならぬのは物質面・経済面での成長という課題と並んで、精神面・道徳面の復興であり、成長です。ですが、それにはとてつもない時間が掛かるでしょう。ですから今日は、まず1つお願いをさせてください。どうか忍耐してください。
そうです、どうか私とともに忍耐し、ともにこの重荷を担い、「古き善きアルブレヒトを取り戻し、越えていく」という役目を果たすという目標を忘れずに心に刻み込んでください。私たちにそれと向き合う勇気と覚悟があるかを、神はお試しになっているのです。それに応えようではありませんか。満額の回答を持って、証明しようではありませんか。国家の内外に、神の愛に基づいた平和を築いていけるか否かを。父や先達の紡いだ歴史が無駄でなかったことを、私たちが責任を担いつつ固く立って生きていることをはっきり示すには、やはり私たち全てが望んでやまない、平和な世界を創り上げねばなりません。平和への愛を育てねばなりません。故郷と家族を忘れず、その平穏のために命さえ賭ける決意をしなければなりません。いつそうすべきでしょうか。今、そうしてください。今、決意を固めてください。
アルブレヒト国民よ、どうか、6月18日が来るたび、今日の話を思い出してください。幸い、3年間はこの日に記念式典が行われることになるでしょう。それを良い機会と捉えてください。たしかに悲しい日ではあるはずです。特に私たち家族にとって。でも、そんな日が、そんな辛い記憶が日々の幸せや輝きを加えていく平和の光で塗り替えられるなら、そのきっかけになるのであれば、6月18日は私たちにとって喜びの日にさえなるのです。
ですから今、私たちが、今を生きていくに足る良識ある文化的な人間であると、広く地の果てにまで知らしめようではありませんか。私たちは人間が何をしでかすのか、どんな考え違いをする傾向があるのかを歴史から学んできました。しかし理想と希望とは絶えてはいません。では、決意を新たにした私たちにできることは何でしょうか。
自由を尊重してください。平和のために尽力しましょう。公正と正義と権利を守り抜き、神に教えられて内面の規範を高め、同じようにして子を育て、国家全体の倫理を高めていきます。そうです、皆様。今日この日に、能うかぎり、唯一の真実を直視しようではありませんか!
時間を大幅に超過したことを心からお詫びします。この辺りで、私の思いの丈は伝え切れました。最後に僭越ながら、9分間話してくれた妹イレーネと助け舟を出した妹たち、レギーナ、アルバータ、グラティアへ大きな拍手をお願いできませんか。
とても大きな拍手が沸き起こった。止むのを待たずにレオポルドは声を張り上げた。
![[アイコン: レオポルド]](/series/6c0b44cb/leo@x1.avif)
父を愛し悼んでくださった皆様、私たち5人から皆様へ、心からの感謝を捧げます。皆様に神の祝福を。Gott mit dir!
![[アイコン: 群衆]](/series/6c0b44cb/woman@x1.avif)
Gott mit dir!!
彼の30分以上に及んだ大演説はこうして幕を閉じた。その間、特に最後の部分を聞いていた間、ヴァロワがどこか嬉しそうな顔をして何か呟いていたことに、クルトは気付いていた。また、話を聞いてか、父を思い出してか、泣かぬと決意していた妹たちは皆一様に涙していたが、もはやそれを咎める者はなかった。貴族たちを含め聴衆のほとんどの者が少なからず涙を流していたからだ。
後に、ヴァロワの隣に起立していたルードヴィング侯に聞いたところによると、ヴァロワはこう呟いていたそうだ。[7人が迎えるはずだった今日という日。5人からの感謝。本人も話しながら“現実を直視”したようだな。]