第5話 〜 予測と現実

老執事の推察

老執事クルトは、壁一面にびっしり本が並ぶ執事長室の、古めかしい重厚な樫の机に向かっていた。机にはかれこれ数十年前に世間に衝撃を与えた名著「法の精神」と、つい近年世を大きく揺るがした本、「社会契約論」が積まれていた。開きかけの分厚い本もある。聖書は「申命記」の一節である。

彼は思案を巡らせていた。レオポルドが腹を決めきれないのはやはり、勉学に未練があるからだろう。しかし、今まですら既に“猶予された”時であったことを、彼には気付いてもらわねばいけない。父伯がなぜあの時期に彼を送り出したのか、その真意に。執事はその意図をすべて汲み取れたわけではなかった。しかし、そこからギュンター伯の高潔さはさらに増したように感じていた。健康を損ねて弱っていく中、より真剣に、深刻に民と向き合っていく様を見て、執事は悟った。彼はもともと、そうしたかったのだと。それまで自身のやり方を抑えていたのはレオポルドにそのやり方を“覚えさせない”ためだった。父伯は息子が自分と同じ道ではなく、自力で目指すところへ辿り着くために。息子の人生を決めてしまわぬために。しかし彼がそうしたのは、息子が自分の仕事をやり遂げてくれるという確信と期待の現れだったのだろう。

おそらく、若君を送り出した時点で自分が長くないこともわかっていたのだろう。老執事はそう睨んでいた。強制的な代替わりを起こした、あるいは、もう替わって良いと信じたのだろう。時期を見極めていたのはおそらく、テオドールのことが頭にあったからだろう。しかし、少なくともその点について、ギュンター伯は失敗した。…それさえ想定の内だったとしたら?老執事は急に背中に寒気を覚え、そして考えるのをやめた。

ともかく、私にできることはレオポルド坊ちゃんにやる気を出していただくことだけだ、と納得したようにも見えた。必要なことは民の苦しみを見ることだろう。この街はあまりにも恵まれている。彼を連れ出す必要がある。これみよがしにならぬようにしなければ。この時、クルトは3案が思いついた。行き過ぎた上案・ちょうど良さそうな中案・落ち着いた下案。ここはどうせなら、と腹を決めたクルトは手紙を書いて早馬を飛ばす。宛先はオステン侯爵、テオドールを見つけてくれた貴族である。

老執事はその足でレオポルドに会いに行く。

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クルト

坊ちゃん、オステン侯爵に会いに行きましょう。テオドール様を診てくださった方です。

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レオポルド

ああ、そうしようか。

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クルト

どうされましたか、坊ちゃん。皆さん、どこかぎこちないような。

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レオポルド

いや、何でもない。気にしなくていいよ。

老執事は知らないのである。彼がほんの少し前に、廃嫡と断絶の可能性について触れたことは。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

出立前にアルバータに会ってくるよ。その間に馬の用意を。訪問が長くなるようなら、クリストハルトではなく、独り身の御者を探しておいて。赤子と一緒に過ごさせてあげたいから。

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クルト

かしこまりました。仰せの通りに。

しばらくして若者が城から出て来るなり、クルトは頭を深く垂れた。

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クルト

残念ながら、今の我が城の養う者には馬を駆れるものがおらず…今日は私が御者を。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

謝る必要はないよ。むしろ良かったさ。首都まではかなり遠いから、早馬で行こうか。クルト、まだ馬には乗れるか?そういえば、ウイットウは元気にしてるのかな。まだ走れそう?

[アイコン: クルト]
クルト

坊ちゃんこそ、4年ぶりでしょう。もう歳ですから、長くは走れませぬ。しかし、その産駒はいまや活気盛んな時期です。乗っていかれますか。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

ああ、そうしよう。

[アイコン: クルト]
クルト

ではこちらへ。こちらの月毛がエーデルヴェーグ、そちらの粕毛がゾネブルム。どちらがお好みですか。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

ではエーデルヴェーグに。頼むぞ。それ、駆足!乗り換えまで全速で進め!

2頭の馬が高く昇る灼熱の陽の下を駆ける。7月4日火曜日の昼下がりのことである。

駆ける馬の上で

レオポルドは幼少から乗馬が好きだった。自分と同じ歳のウイットウをかわいがり、よく遊んでいた。白馬のウイットウには、草原がよく映えた。そう、意外にも彼は野生児というか、その類であったのだ。レオポルドが勉学に精を入れ始めたのは14歳の時。他にも彼が好きだったのは水泳と弁学、弓術。英語と仏語、剣術も習ったが、得意だったわけではない。もっと、留学中にかなり覚えることになったのだが。馬を変え替え、駆けること6時間。4頭目の馬の体力が切れかかる頃。あと1頭分の距離を行けば、首都シュプレツカに着くのだが、あたりは既に暗くなり始めていた。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

クルト、そろそろ宿場に着きそうか。この子、そろそろ走れなくなりそう。

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クルト

そうですね。せっかく止まるのですから、そこで一夜の恩に預かりましょうか。もう暗くなっていますから。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

それは甘いんじゃないか、クルト。オステン侯爵をお待たせしているのだから、急がねば。向こうに宴の用意があったらどうする。まだ6時過ぎじゃないか。

[アイコン: クルト]
クルト

し、しかしこの辺りは治安も悪く…

しどろもどろに答える老執事。そう、彼には不安があった。あまりにも飛ばして来たので、自分が送った手紙の早馬を追い越したのではないか、という不安が。それでは計画が頓挫してしまう。同時に、次の手を打つには時間が足りなくなる可能性があった。なんとしても引き留めねば。しかし、その不安はある意味で杞憂に終わることになる。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

ああクルト、少し忠告するのが遅かったみたいだね。

若者の声でふと我に返った執事の目に飛び込むは、道を塞ぐ2台の馬車と、それを囲む数十の影。最近頻出していると話題の盗賊団だろう。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

残念ながら、もう目をつけられたみたいだ。

遭遇と危機

[アイコン: 盗賊]
盗賊

これはこれは、いい獲物が来たな。

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レオポルド

いったい何のことでしょうか。我々はあいにく持ち合わせがなく。今回は何も見ていないことにしますから、行かせてはくださいませんか。

レオポルドは下手に出て言った。相手は徒歩、こちらは馬なのだから、いくら馬が疲労していようと逃げられないはずがなかろうに。何か意図があるのだろうか。クルトには分からなかった。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

そうはいかないよ、なんたってお前は伯爵家の坊ちゃんだからなあ。身代金がいくらもらえるか、わかったもんじゃねぇ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

私を知ってるのか?この暗がりに、どうしてわかった?

少し口調を強めて問うレオポルドに、盗賊は答えた。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

ふっ。一般市民の鞍に金の刺繍がついててたまるかよ。いいとこに生まれて、自分が恵まれていることにも気付かずのこのこやって来たんだろう、どうせ。イライラするぜ。なんなら殺してやってもいいけどな、どうするお前ら?

盗賊たちは内輪で揉め始めたようだ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

クルト、逃げるぞ。

[アイコン: クルト]
クルト

はい。

静かに馬の踵を返した時、女性の声が聞こえた。

[アイコン: 女性]
女性

どなたか、いるんですか!いるなら助けてください。このままじゃ私たちグッ

そこで女性の声が止まる。盗賊たちは助けを求めた女性を殴り、轡かなにかをかけたようだ。クルトは忠告する。

[アイコン: クルト]
クルト

レオポルド様、振り返ってはなりませぬぞ。これが今の世です。あなたにはこんな世界を変え得る力がある。ゆめゆめ、忘れられますな。今は御身を大切に…なっ!

若者を見て話していたはずの老執事はいつのまにか空に向けて語り掛けていた。まさかと思い振り返ると、若者は盗賊に向き合うどころか馬から降りてさえいた。護衛をつけてくるんだった、と強い後悔が襲う。同時に、腰に括っておいた短剣のことが脳裏によぎる。今は老人でも、戦乱を生き抜いた元軍人であるぞ、と言ってはやりたいが、いかんせん相手は…16人。こちらも人質をとって逃げるべきか。それにしても坊ちゃんは何を考えて…武器もないでしょうに。

[アイコン: クルト]
クルト

坊ちゃn

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レオポルド

それ以上言わないでくれクルト。私は助けを求める声を無視して去れるほど強くないのだ。

そう言い放つレオポルドの声は震えてはいなかった。若者は盗賊たちに歩み寄って言った。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

確かに私は伯爵ヴァルトブルク家の血筋だ。知っての通り、父は死んだ。だから、残念ながら私を捕まえても身代金を払うものがいない。だが、5日後には父の葬儀がある。その場に私がいなければ、貴族たちは異変を察知する。そうなれば、君らごとき盗賊を捕まえられぬほど、国家は愚かではない。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

だからどうした。それはつまり、俺たちがお前を捕まえても何の得もないってことじゃねぇか。それならお前らが逃げ出しても一緒だったろうが。なぜ逃げ出さなかった?

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

そうだな。でも、こう言ったらどうだ?私が父の地位を継げば、財産を相続することになる。そうすれば、私は君たちの望む額を渡そう。だから、その女性たちを放しなさい。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

そんな都合のいい話があるか、何の保証もなしにおいそれと受け入れる訳ねぇだろ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

では、私の執事、クルトを代わりに置いていく。

…え?クルトは驚愕のあまり、思わず笑ってしまった。盗賊たちも笑っている。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

ははは、坊や、それは身代わりってんだ。いいこと言ってるようで、結局自分は見逃してくれってことじゃねぇか。くぅ醜いね、醜いよ。気に入ったぜ。爺さん、降りてきな。坊やは意地でも死にたくないようだからな。くくく。

[アイコン: クルト]
クルト

坊ちゃん、それはいくらなんでもあんまり…

そう言ったクルトだったが、[少し付き合え。]と、レオポルドの口が動いたのが見えたクルトは、この若者を信じることにした。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

人質は正確に交換しなければ。盗賊、縄をくれないか。私がクルトを縛り、そちらへ引き渡す。そちらも1人が前に出て、女性たちと交換する。いいか。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

いいだろう。

[アイコン: 手下]
手下

しかし、もし甘く縛られたら爺さんが暴れるかもしれませんぜ、頭目。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

所詮爺さんだ、心配するな。

クルト自身も、敵の下っ端と同じように、緩く縛ってくれるものだとばかり思っていた。しかし、その期待は外れることとなる。

[アイコン: クルト]
クルト

痛い…坊ちゃん、痛いです。そんなきつく縛らなくても。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

けへへ、演技派なんだかそいつが下衆なのか知らねぇが、面白いもんだぜ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

…申し訳ないが、数日頼むぞ。

クルトはレオポルドに疑念を抱くと同時に、改めて期待もした。無情な選択肢を取ることができるというのも、領主としての資質だ。そして、少なくとも戦うことが彼の選択肢にないことを知って安心もした、その時。[クルト、祈れ。]と耳元で囁かれる。[はい?今ですか。]と答えると、[ああ。できるだけ長く。]

視線を一瞬右に向けた若者の意図を汲んだ執事は、盗賊の頭目に声を掛ける。

[アイコン: クルト]
クルト

私が安全でいられることを、そして坊ちゃんの安全を神に願ってもいいでしょうか。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

あ?ああ、好きにしろ。

[アイコン: クルト]
クルト

感謝します。では…。ああ、天にまします我らの父よ、今日の命に感謝し…

その祈りは、数分に及んだ。盗賊たちは興味もなさそうに強奪物を積み込んでいた。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

ようやく終わったか。ったく、年寄りは信心深くて困るぜ。おいガキ、早く連れて来い。

縛られた執事と若者はゆっくり歩き始めた。盗賊の一人も女性たちを連れ、前へ出て来る。重々しい空気が流れている。若者の左手は、執事を縛る綱の端を盗賊の右手に、盗賊の右手の綱の端は若者の左手へ渡される。頭目が命じる。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

そのままゆっくり下がれ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

お2人とも、大丈夫ですか。

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女性

ええ、今のところ。ありがとうございました。それより、執事さんは…

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

心配ありませんよ。ところで、馬には乗れますか。

[アイコン: 女性]
女性

私は乗れますが…娘は乗れません。生まれつき病弱で。

そうですか。ではよろしければ私の後ろに乗せましょう。

話は続く。互いの素性を明かしたり、御者と警備の3人が殺されたこと、父親が病に斃れたために商売をしていたこと…

[アイコン: 盗賊]
盗賊

ふん、ずいぶん呑気なもんだな。俺たちも人質をもらった以上お前らに手出しする気はねぇが。女の方は、金貰った後、都の売女どもを侍らせるとするか。上玉をな。娘もなかなか可愛かったが。さあお前ら、さっさと馬車のブツを載せ替えろ。人が来る前に退散するぞ。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

ではフィリッパさん、リアさん、行きましょう。まずはフィリッパさん、馬に跨って…

レオポルドは馬を跪かせ、馬の乗り方を丁寧に説明する。

[アイコン: レオポルド]
レオポルド

ではリアさん。こちらの馬に乗ってください。後から私が飛び乗るので、しっかりと抱きかかえてくださいね。

そこでふと、頭目が何かに気付いたようだ。

[アイコン: 盗賊]
盗賊

こいつ、なにか時間稼ぎをしてないか。あまりにも呑気すぎる。普通、こんなところさっさと離れたいもんだろ。

[アイコン: 手下]
手下

頭、確かに怪しいですぜ。

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盗賊

銃、構えてろ。暗くてよく見えねえが、ある程度の高さを狙えば誰かしらには当たるだろ。

盗賊たちがレオポルドを注視するなか、彼は馬に飛び乗った。その瞬間、あたりに灯りが点る。

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レオポルド

さあ盗賊。取り囲まれてるぞ。まずはクルトを離してもらおうか。

無数の松明に煌々と照らされた夜道に、怒号が響いた。盗賊は最後のあがきと銃を放ったが、その弾が誰かを掠めることもなかった。