歩羽理のほころびソクラテス 返報性の原理にほつれる
「普通に暮らしていても突然浮かぶ、違和感。服に生じたほつれが進行すると、その糸がするする抜けて、いつしか着れなくなるように、気になったことも無視しているといずれは自己が崩れてしまいます。だから、ここで吐き出して、それっぽい結論をでっちあげて、気がかりを解消しましょう。」というコーナーの第二弾。前回から実に4か月近くが経過しようとしています。本当はもっと高頻度で出したかったんだけど、ダメでした。まあ、気長にお待ちください。大型記事も出るので、お楽しみに!
返報性の原理
最近の風潮を見ていて思うことがあります。
「優しくしてくれた人にしか優しくしないって話にならんよな」
って。現代は、「今を生きる」ということが本当に難しい時代です。こんなに生きづらい世の中、それも、人々が口々に生きづらいと言い触れているような世の中は久方ぶりなんじゃないでしょうか。ただしんどいなっていう時代は戦時中とかいろいろあったでしょうが、一般の人がこんなに世を恨めしく思うのは貴族とかが世を謳歌してた頃以来では?と思います。話題の朝ドラ「ばけばけ」のキャッチコピーが「この世は、うらめしい。けど、すばらしい。」だそうですが、八雲の怪談と掛かってるのもあると思うので、これはご愛嬌。
なんにせよ、このストレスフルな時代を生き抜く知恵として、自分に優しくしてくれる人にしか優しくしないとか、自分に優しくしてくれない人には優しくしないとかいうのが語られることが多々あります。お風呂の温度は、温度が低いほどリラックス効果があって副交感神経が優位となり、高いほど覚醒効果があり交感神経が有利となります。人生も同じだと思うんです。その思想に生活を楽にする、リラックスさせる側面がないとは言いませんが、それって社会に出てるって言えるの?本当に大人なの?って思ってしまうのです。ぬるま湯の中で暮らすことを好むなら、大抵の場合は家庭から、あるいは自分の部屋から、インターネットから、ともかく一番居心地のいいところから出ないのがベスト、ということになるからです。
これは、いわゆる返報性の原理を間違って適用しているのではないかと考えます。社会心理学者のロバート・B・チャルディーニが提唱した心理作用ですが、好意、譲歩、自己開示、敵意にはそれぞれ同じものを返そうとする人間の心理的な活動です。無意識に働くもので、「人情」「義理」といった、いわゆる「ヤ」の付く人が大事にしているあれです。「筋を通す」とか、「お返しする」っていう奴ですね。 「やられたらやり返す、倍返しだ」なんて言葉がまさにそれを表しているようです。
ただ、これを間違って適用する落とし穴があるそうです。それは、見返りを求めること・不純な気持ちで与えること・過度な期待をすること、だとか。僕がひっかかっている(言動にほつれている、っていう日本語変だから、許してね)ところってまさにそれじゃないでしょうか。少なくとも、こんな考えがもてはやされているようじゃ、残念ながらみんなが住み良い時代など来ないです。だって、人間好き嫌いはあるもの。当然、大多数から嫌われる人というのも出てくる。でもそんな人にも家族がいて、波長の合う親友がいるものです。そちら側、あるいは思いも寄らない集団かもしれませんが、彼らから見れば、常識人を自認するあなた、そうあなたも苦手な、関わり合いになりたくない人種なのですから。その自覚は誰しもが持たねばなりせん。そして、そんな自分を許して、苦手なのをおくびにも出さず頑張っている聖人や、隠しきれていないけど関わってくれている大人たちがいるのですから、自分はそうしないという甘えはいけませんね。もちろん、鬱だったり、体調や事情が厳しいゆえに人に冷たく接するということもあります。それを否定しているわけではありません。実際、そういう友達が山ほどいます。自分も躁鬱だったことがあります。行為を強制しているのではなく、あくまで気持ちの持ちようの話ですので、悪しからず。
ではどうすべきか?
でも、誰でも心構えとしてできることがありませんか?見返りを求めないこと。こっちは優しくしたのだから同じようにされて当然というような驕りは避けたいですね。その気持ちが地度に出た瞬間、あなたは間違いなく「厚かましい人」という評価と、嫌悪感を獲得することになります。そういうのは相手の事情を汲み取る力のない幼子のする行動です。幼い時、自分はある子にブランコ譲ったのに、その子はいつまで経っても譲ってくれないとキレた記憶があります。でも、自分はそれまで毎日ブランコに乗っていましたが、その子はその日人生で初めてブランコに乗ったと後で知って後悔しました。なんて素直ないい子、と今になってみれば思いますが、大人になってもまだそういう力がないのは恥ずかしいですね?
純粋な気持ちで与えること。動機が肝心です。相手に喜んでもらえさえすれば、それでまず目的は達したと考えるのが、ストレスを貯めないコツでしょう。さらにいえば、喜んでもらうために何かできた自分に満足できませんか。もちろん、余計なお世話だったというようなことは往々にして起こるものです。それでもいいじゃないですか。感謝されるまで、お返しされるまで、他人に親切にされるまで、というゴールを設定すると、自分には制御できない他人の行動に自分の行動の結果が左右されてしまいます。それでは、期待通りにいかないのは確実です。他人は違う生き物、そういう割り切りが必要です。自分に「優しくしてくれる人」「優しくしてくれない人」という2つの人種がいるのではありません。そもそも人間は全員が違う存在なのです。82億7558万5834(2月19日推計)の別の生き物がいるのです。一人として同じ存在はいません。だからこそ、あなた個人がこのの中で貴重な存在なのではありませんか?他人を分類して型に押し込めるだとか、不純な気持ちで与えるというような小賢しいことはやめませんか。「個」という概念が確立されていない証拠なので、それはつまり責任の力が未熟な証拠で、大人としてはちょっとダサいです。
過度な期待をしないこと。実際には、見返り(返報)を期待するのは人間の性ですから避けられません。だから、そう感じてしまった自分が憎いとか思う必要はないのです。むしろ、期待のハードルを下げておけば、それを上回ることが多くて嬉しいです。得をするということもできますね。自分がした善行は次の週には忘れてるくらいであれば、ポジティブな人になれるでしょう。もったいないことはしない、効率的で合理的なスマートな大人になりたいものです。
もう一度言っておきますが、このシリーズはあくまで僕の思ったことを吐き出している場所であって、講壇からの説教でも、啓発系のインフルエンサーの真似事でもありません。人に刺さるも刺さらないもよし、怒らせるも泣かせるもよし。そう思ってます。多分。
今日は、みんなに優しくしようと努めてる自分をもっと褒めてほしくてこんなことを書いたのかもしれません。他者の評価に依存する幸福を求めてるようじゃ、僕もまだまだ未熟です。まあ、今回に関しては明確にこの記事を書きたくなった理由があるので、また別の記事でそれを書きます。次回のほころびソクラテスをお楽しみに。次は4か月開かないように頑張ります。歩羽理でした。