第2話 〜 帰還、追憶 そして展望
海峡を渡る船の中で、レオポルドにはまだ決心がつかずにいた。大学での勉強は彼の性に合っていたし、今年度に待つ卒業の後は大学に留まって教鞭を取ることが決まっていた。今まさに世界を先導し席巻する、大物学者たちとの繋がりもできていたし、もしかすると王立研究所に呼ばれるのではないかという話も小耳に挟んでいた。格式、実績共に最高の研究機関である。
それだけではない、家督を継いだ場合に担うことになる責任の大きさにも圧倒される。それは恩師ファイトが別れ際に指摘した通りだった。この時彼は自分の行く末、という点に絞って考えていたが、もちろんそれは、イレーネが当主になって、それを妹たちとテオドールが支える場合にも言えることだった。レオポルドは嫡男である以上、いつかはその時が来ることはわかっていたはずだった。そう教育を施され、そのように期待もされ、そうなるものだと見られてきた。だが、あまりに予期せぬことだったし、父伯ギュンターはまだ52歳だった。アルブレヒトの貴族男性の平均寿命は63歳であるから、早過ぎる死という表現はまさに適切なのだ。
大陸の入り口にあたる大河の河口から南下し、上流へ遡る小舟に乗り換えて進むこと数日。ようやく長い航海の終わる時が来た。揺れる舟から硬い木材でできた舟着き場に一歩を踏み出す。久しぶりに揺れることのない大地の土を踏んだレオポルド。平衡感覚が狂い、脳が揺れるような感覚を覚える。だが、若者にとってその一歩の持つ意味はそれだけではなかった。4年ぶりに故郷の土を踏んだのである。その想いやいかに。しかし、物思いにふける間はなかった。接舷したその埠頭に、見覚えのある男を見つけたからだ。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
クルト!迎えに来てくれたんだね。ありがとう、こんなに遠くまで。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
いえ、とんでもない。当然のことをしたまでですから、もったいないお言葉です。それに、道中積もり積もったお話をしたいと思いまして。しかし、その前に一つお伝えしなければならないことがあります。覚悟してお聞きください。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
申し訳ないけど、仕事のことなら父さんの葬儀の後にしてくれないかな。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
いいえ、そのことではございません。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
じゃあ…
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
一昨々日、テオドール様がご逝去されました。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
えっ…
レオポルドは膝から崩れ落ちた。呆然とした様子で俯く姿は誰が見ても痛々しいものであった。重苦しい沈黙を破ったのは船頭だった。
![[アイコン: 船頭]](/images/oldman.avif)
あの、すいません。お代を頂いておりませんので。あなたに神の慰めあれ。
彼の言葉によって現実に引き戻されたレオポルドは、袋いっぱいの銅貨を、数日を共にした船に投げ込むと、言った。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
クルト、出発前に教会堂に行こう。たしか、この近くに大きなのがあったよね
仰せのままに、と短く答えた老執事が御者をする馬車はしばらくして教会の正面に止まる。若者は1人で教会に入っていく。美しいゴシック様式の教会は段々と暗闇に沈んでいく。気が付くと、彼の祈りが始まって実に4時間が過ぎていた。クルトはその間ずっと身動きせず、腰を落ち着けて待っていた。
あたりが完全に闇に包まれた頃、レオポルドが教会の重厚な扉を開けて出てきた。クルトが尋ねる。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
祈りを果たされたようですね。清々しい顔をされておられます。牧師様は何か仰っていましたか
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
教義については、既に知っていることを幾つか。だが、聖書を手渡してくれて、ある聖句を読むようにと仰ったんだ。コリントの信徒への手紙第二1章3節。そこは確かに力になったけれど、私はその次が気になったんだ。正確には覚えてないけど、こんな感じだったと思う。“神はどんな試練に遭っても慰めてくれる。それで、私たちは神からの慰めによって、どんな試練に遭う人をも慰めることができる。”
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
はぁ。確かに暖かな気持ちになるみ言葉です。しかし、それがどうして今のレオポルド様に引っかかったのでしょうか。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
神の慰めを必要とするときとは、人には癒しえぬ傷を負ったときということだ。それを経験して初めて、人は人を真に慰められる人間になる。つまり、父を亡くした今になってこそ、私は領民を真に慰められる領主になれる可能性があるということだ。
老執事は内心飛び上がるほど嬉しかった。レオポルドが正式に家督を継ぐ決意を定めているように思えたからだ。もちろん、長く仕えたギュンターとテオドールの死には堪えるものがある。しかし同時に、止まっていられる時間もないことは明らかだった。ヴァルトブルク家を、アルブレヒトの民を守っていく存在が必要不可欠であり、それが"貴族の義務"であると、彼は理解していた。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
それでは、家督を継いでくださるのですね。
しかしうら若き支配者の卵はクルトの期待通りの返答をしたわけではなかった。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
いや、あくまで仮定の話だよ。でも、もし事がそう運ぶなら、これは全て"思し召し"なのかもしれないな、と思って。
噛み合わない2人の思惑。普通であれば気まずくなりそうなところだが、そこは流石に2人は立派な大人であった。それから始まった足掛け3日の2人の道すがらが、あくまで平和な時間になったのは言うまでもない。ただ、どれだけの話題を渡り歩いても、最後には父と兄の思い出話に行き着くのは必然の理だったろう。
大陸帰還から3日目の夕刻。ついにそびえる城が視界に入る。懐かしき、18年を過ごした城である。道のりの最後での話題は、父ギュンター伯の葬儀についてだった。クルトは手帳を開いて言った。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
元老院は、お父様のために国葬を行うことを取り決めました。日付は6日後。没日から20日を経ての葬儀となったのは、それだけ大きな用意がなされているということです。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
父さんは相当大きな働きをしたということなんだろうね。詳しく聞いた事はないけど。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
ええ、そういうことです。いつかお話しすべき時が来ると思っていましたから、今がその時なのでしょう。私もすべてを知っているわけではありませんが、お話します。お父様の功績は、国王の暗殺計画を伴う蜂起を阻止したことなのです。しかし、その蜂起はほとんど全貴族が参加する、実質的には国王の追放とも言える大規模なものでした。確かに、王朝最後の国王の横暴には目に余るものがありました。地域にもよりますが、民の悲痛な叫び声は高らかでした。それでも、お父様はその企てに参画せず、お止めになられたのです。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
なぜだったのだろう。それは父さんが亡くなった今もう分からないとして、いわゆる体制側としての貢献が認められたことが英雄賞を受けた理由だということか。そして、それが父さんがたくさんの貴族たちから疎まれていた理由なのかな。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
そういう面もあったでしょうが、それは思い違いです、我が君。いいですか、お父様はその判断をされる前に、こんな経験をされたのです。あの頃、民の反応が二分され、その緊張がとても高まっているのを理解しておられました。王党派と議会派にです。それに、既にそこかしこで紛争が始まっていたのです。もちろん、この城にもその余波が及んでいました。お父様は首都におられましたが、隣町の不穏な動きを見て取り、即時帰還されたのです。ついにクワを武器に隣町の農民たちが攻めてきたとき、領民を守るため、お父様は自ら武器を手に取り、迎撃をされました。幸いにも、こちらの側に被害はなかったのです。ただ…
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
ただ?ただなんだい。尻込みすることはないよ。なんでも言って欲しいんだ。それに、よしてくれ、そんな呼び方は。これまでのように坊ちゃんと。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
では、坊ちゃん。敵はみな一般人でしたから、そう長く持たず全員降伏しました。ただ、こちらの兵士がそのあとになって相手方の一人の女性を殺害してしまったのです。妻を殺された男は激怒し、お父様に掴み掛かりました。お父様を守ろうといきり立つ兵士たちに、お父様は剣を抜かないよう堅く命じました。揉み合いの末、お父様は男に城壁から投げ落とされてしまいました。しかし幸いにも、剣を城壁の積み石の隙間に刺して一命を取り留めたのです。無事救出された後、冷静さを取り戻した男はお父様に謝罪しました。お父様は妻のことについて心から謝罪し、多額の金銭と必要な援助を申し出ました。そして葬式を執り行うこと、殺害した兵士に罪を問うことを決められました。そこまで聞いた男は罪悪感からか、不意にお父様の命を救ったその剣を抜き、自らの首を掻っ切って自死したのです。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
そんなことが…。父さんはかなり責任を感じただろうね。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
ええ。その後お父様は夫婦の葬儀を盛大に行い、親族に謝罪して回ると、残された生まれたばかりの子を引き取ったのです。それが、テオドール様でした。まだ1歳にならない赤子でした。坊ちゃんがお生まれになる6年前のことです。24歳と17歳でご結婚されて6年、なかなかお子に恵まれないことを嘆いておられたところでしたから、お二人の愛情の注ぎ方と言ったら凄かったのですよ。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
そうだったんだね。もちろん、テオドール兄さんから聞いてた部分もあったけど。まとめると、結論はこうなるかな。兄さんのような悲劇を繰り返さぬために、同胞の間で憎しみ合わないために、父さんは内戦に発展する前に謀反を止めた。だからこそ、民が苦しんでいることは分かったうえで、その時点での判断として、王政を維持することにしたということだね。他の解決策も考えていたのかもしれないし。
![[アイコン: クルト]](/images/cur.avif)
ええ、そういうことです。ですから、信じてあげてください。お父様のことを。
話がそこまで進んだ頃、馬車は町へ渡る跳ね橋に差し掛かった。畑仕事をしていた領民たちは、馬車馬の蹄が固い木材を叩く音と、御者が鞭を打つ音に顔を上げる。そして懐かしい若者の顔を視認すると、大きな声で呼び掛けた。
![[アイコン: 農民]](/images/oldman.avif)
おーい坊ちゃん!帰ってきただかね!父さんは残念だけんど、これからは期待してるけぇの!
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
ありがとう、アヒムさん!
![[アイコン: アヒム]](/images/oldman.avif)
名前、覚えててくれただね!ありがとよ!
城壁に囲まれた街は比較的広々としており、刈り込まれ整えられた草原や豊かに水の流れる畑、子供の駆け回る公園を含んで放射状に街路が伸びている。数分歩くと大通りにぶつかる。通りを挟んで正面には道が続かず、横に少し移動しなければ次の郭へは進めない。これが3度繰り返され、ようやく城郭に辿り着く。古風だが堅牢な城に。城の中にも井戸や畑、牧場があり、全体の大きさは1/10ランドマイル四方にもなる。(※注記:当時のランドマイルは約7420mであるから、その1/10となると、1辺750mの正方形に相似できる。その面積は約55万平方メートルとなるから、小学校の平均面積25万平方メートル2つ分であり、かなり大きいと言えるだろう。)
街路を黄色い歓声の中ゆったりと進むこと1時間。ついに城の西側の跳ね橋に差し掛かる。対岸には愛する兄を待つ妹たちの影が夕日に照らされて映し出されていた。帰りを今か今かと待っていたのだろう、馬車を見かけると皆が走り出す。
![[アイコン: グラティア]](/images/gra.avif)
レオポルド兄さま!
駆け寄ってくるグラティアをレオポルドは抱き上げる。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
グラティア、大きくなったね。もう13になるんだもんな。
![[アイコン: グラティア]](/images/gra.avif)
兄さまも少し背が伸びたんじゃない?まだまだ追い越せそうにないわ。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
そりゃそうだよ、にいは6フットあるからね。イレーネ、レギーナも一層かわいくなったな。よしよし。ところで、アルバータはどうした?
そう言いながら2人の頭を撫でるレオポルド。クルトはその姿を微笑ましげに眺めていた。
![[アイコン: イレーネ]](/images/ire.avif)
それが、具合が悪くて。
イレーネが歯切れ悪そうに答える。その姿に、どこか後ろめたいところがあるようなそぶりを見て取ったレオポルドは、レギーナとグラティアに言った。
![[アイコン: レオポルド]](/images/leo.avif)
私がいない間、イレーネを支えてくれてありがとう。私は姉さんとちょっと相談しておきたいことがあるから、二人は先に待っててくれるかな。今日の夕食は何?
![[アイコン: レギーナ]](/images/reg.avif)
わかったわ、お兄様。今日は羊の酒煮だったかしら。行きましょ、グラティア。
レギーナはグラティアの手を取ると、レオポルドの頬にキスをして歩き去って行った。いや、少なくとも傍目にはそう見えた。しかし実際には、兄の耳元に小声でこう言い残していったのである。
“あとで部屋に来て。大切な話があるの。”
レオポルドは悟った。今この家には問題が山積しているということに。