ちゅ、多様性
2025年10月21日、高市政権が誕生しました。“史上初の女性首相”という代名詞は、ご本人も支持層も、目線は女性に寄り添いつつも、そこを押し出さずとも実力で勝負できるというスタンスのためか、比較的静かで、それどころか社会全体の風潮も、『取り立てて騒ぐことではない』というニュアンスを感じるのは僕だけでしょうか。
![[高市総理誕生の瞬間の衆議院の様子。起立した高市氏に拍手が送られている。]](/articles/2025/11/0a84f77f/image.avif)
固定観念的なジェンダー観
たしかに、現代の男女平等の観点とは、人間は権利も能力も男女平等であるから、男性だから、女性だから、というレッテルによって判断されるのは間違っているというのが定説です。それが間違いだと言う気は一切ありませんが、100年前が舞台の某作品には“長男だから我慢できた”なんて台詞が出てきますし、僕も幼い頃には
- 「男なんだからメソメソするな」
- 「女みたいに裁縫やら料理なんかするな」(これは祖母だけ。あなた孫娘いないんだから、家族誰も家事できない時が来るよ、そんなこと言ってたら。)
- 「長男なんだから我慢しろ」
だとか言われた記憶があります。少なくとも僕が生まれた20年前の田舎ではそんなことが普通に言われていて、家族どころか近所のおじさんにまで言われるようなことはザラでした。
でも実際のところ、比較的ジェンダーギャップが大きい、つまり「性別に対応する役割があるというような考え方」が先進国の中で最も多いと評価されるこの日本で、事態が進展したことはまず、大きな里程標であることに間違いありません。まずは、高市新総理に祝意を表し、今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
遺伝子学的な多様性
近年、時代が変化するにつれて、盛んに叫ばれるようになった言葉があります。「多様性」です。多様性は生物にとって根幹となるものです。近親婚が非とされる生物学的理由であり、そして本能のまま生きる動物たちでさえこのタブーを犯さぬよう避ける傾向はまさに、多様性を損なわないために行われています。どういうことでしょうか?
遺伝子は本当に多様な組み合わせがありますが、それを構成する基本単位である塩基は主に4つです。(RNAに含まれるものや、修飾塩基と呼ばれるもの、人工のものを含めれば100を超えているようですが…。)
遺伝情報の1セットすなわちヒトゲノムには31億もの塩基対があるので、その組み合わせは膨大ですが、99.9%は共通で、見た目や性格、体の強さ、肌の色など多様性を生み出す部分は0.1%ととも言われます。付け加えるなら、受精時の減数分裂でどの染色体が欠けるか、そして相同染色体が乗り替えを起こすことで純粋な計算より組み合わせが広がるのですが、ともかく、無限にあるように思えるこの組み合わせでも、近しい組み合わせが多くなると、環境の変化に対応できなくなるとか。
例えば、火山の噴火によって平均気温が下がった時、寒さに強い遺伝子がなければ種は存続しません。でも、遺伝子が多様であれば、寒さに強い遺伝子が種の中に存在する可能性が“高くなる”のです。“必ず”存在するとではなく、あくまで“高くなる”、というのがまた絶妙で面白いですが、なんにせよ、それが生物が多様性を追い求める理由なのです。
非遺伝子的な多様性
現代における、非遺伝子的な多様性も同じだと僕は考えています。はるか昔のことにも思えますが数年前、そう、ほんの数年前のことです。「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が一世を風靡しました。「SDGs」という言葉もその時期に流行っていたでしょうか。
それらが目指していた本質的な部分、あらゆる差別と貧困を無くし、誰もが幸せに自由にそして永続的に暮らせる地球を作るという非常に有益な目標は、いつしか「原作にない改悪を加えるもの」だとか、「政策をぶれさせるもの」だとか、そんな風に捉えられ、その「行為」が否認されるうちに、いつしかそれが含有していた「意図」までもが否定されるようになってしまいました。
長い脱線を経て、ようやくここで冒頭の話につながるわけですが、これまで103代66人(高市氏が104代,67人目。)いる総理大臣職を初めて女性が所有しました。有資格者からランダムに1人選び出した時、67人とも男性である確率は限りなく0ですし、最も能力が高い人間を、あるいは最も国を憂う人間を選んだ時、それが男性だけである可能性もほぼ0でまず間違いありません。
でも、もしこれまでの間に男性が死滅するウイルスが流行っていたら、どうなっていたんでしょうか。そんな同人誌みたいな展開ないよと仰るかもしれません。そりゃそうです。でも、先ほど考えた通り、多様性が欠けていることの弱さはそこにあります。緊急事態に際して、選択肢の幅が狭まるのです。ですから、種の中に多様性を得るためには、産みの苦しみを経てでも可能性を広げる必要があるのです。
これまでの歴史を考えてもそうです。多様性は、新たな選択肢を広げてきました。例えば共産主義が生まれたとき、世界はそれを警戒し破壊しようとしましたが、その取り組みはうまくいきませんでした。現在、純粋な共産主義はもはや現存しないものの、その思想とその信奉者の強さを怖れた諸国は社会福祉を拡充し、いまやどの西側諸国の予算でも1番を占めるほどの莫大な規模へと発展しました。
ですから、行き過ぎているとみられている今の“政治的正しさ”への追求も、例えばそのために議会にクォータ制を導入することだの、“持続可能な社会”のために、我々消費者が紙ストローを強要されることだとか、その程度のことを気にしてはいられません。もちろん、過激になることが許されるわけではありません。適度なバランスと適切な倫理、そしてあくまでお願いベースで物事を進める腰の低さが推進派に求められるものです。
ただ、人間も生物である以上、そして今後種を存続させるためのキーが何かわからない以上、崇高な目的を持つすべての取り組みは、不便を押してでも協力していくべきだと僕は思います。保守的であることも素晴らしいですが、今を維持できれば未来を維持できると考えるのは驕りです。守っていくべき伝統の中にも、これから生み出されるものの中にも、人類の未来を豊かにするヒントがあるはずです。だからこそ、妥協できるところは妥協して、不便に耐えることが今を生きる人間の責務だと思うのです。
過去に人間が無意識のうちにに犯してきた行為の積み重ねが狭められた見方を形成している場合は特に。つまり、政治に関わっていいのは男性だけ、金持ちだけ、とかの考えと、無意識にそこから影響を受けた現代の風潮など。他にも、大学に女性枠や外国人枠があって炎上することもありますよね。大学がそれが正しいと思った以上、外野の僕に何を言うことがありましょうか。“大人”は社会が理不尽であることも、その上でどう生きるか決め、その上他人の決定には口を挟まない人間なのではありませんか。個々の権威能力を認めて侵害しないことは、自分が権威能力を持っていて、それを持つにふさわしいことの証左でもあります。
ということで、キャンセルカルチャーにしろ、権利の追及にしろ、なんにせよ、みんなが受け取りやすい仕方で主張を提供すること、みんなのために自分と違う主張も受け取れる余裕のある大人になることが、多様性を広げ、ホモ=サピエンスを生き永らえさせる秘訣だと思うわーりんでした。